睡眠と香り
はじめに
香りは、覚醒状態を調整し興奮状態を鎮静することを目的に用いられてきた長い歴史を持っています。古代エジプトの女王クレオパトラが、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)に初めて会う場面で、自分の美貌に加えて香りを使ったという故事は、よく知られています。また、宗教儀式に香りが多用されることも、よく知られていますね。ギリシャ正教では、振り香に乳香が用いられることが多いようです。しかしながら乳香は、樹脂を燃やした香りではリラックス効果が、精油での香りには興奮作用があると報告されています。このように、香りの作用は単純なものではありません。前記の乳香のように、一般に用いられている香りは数十種類の香気成分を含むものが多く、どの香気成分が多いかによって、作用も異なる場合があります。例えば、著名な鎮静系の香りであるラベンダーは、大まかな成分含有量として酢酸リナリル48%、リナロール40%、酢酸ラベンディル5%、テルビネン4%、カンファー0.8%、1,8-シネオール0.2%、その他多種類の成分を含むことが知られています。品種も数多く存在し、採集された地域や季節で、含まれる香気成分の割合も異なります。どの成分が生体への主要な作用を有する香気成分であるのか、いまだに確定的ではありません。これまでに使われてきた香りは、このような香りが多いのです。
日本語で「におい」を漢字で書く場合、不快な香りの「臭い」とよい香りの「匂い」のように、人間の感じ方によって表記が分かれています。香りも、どちらかというとよい匂いで使われることが多いようです。これも古くから香りに馴染んできた日本人の経緯を示しているのでしょう。麝香(じゃこう)、ミント系、ジャスミン、グレープフルーツやライムなどの柑橘系、シナモンやペッパー等のスパイス系の香りには覚醒作用や興奮作用のあること、白檀(びゃくだん)、沈香(じんこう)、ラベンダーのような香りにはこころを落ち着かせる作用のあることが体験的に感得され、古くから使われてきました。
さらに香りは、味覚とも密接に関連しています。本稿を執筆している2021年2月現在、新型コロナウイルスの感染が世界的に大流行しています。新型コロナウイルスに感染すると、その後遺症として、症状が軽度であっても、嗅覚や味覚が感じられなくなる人が多数報告されています。新型コロナウイルス感染により嗅上皮(嗅粘膜)細胞が脱落するためと推定されています。嗅上皮には、約2000万個の嗅細胞が密に分布し、においは味覚とも密接に関係しています。においなしでは味覚を的確には感受できないのです。
嗅覚の脳・神経経路
嗅覚の脳・神経経路は神経生理学的な話になり、どうしても少し難解な内容になりますが、ご容赦下さい。においは、分子として空中を浮遊し嗅細胞に結合し電気信号を引き起こします。嗅細胞の形状は、人間も鳥類やは虫類も基本的には同じです。嗅細胞のにおいを感じる部位は、アンテナのように広がっていて、その細胞膜ににおい物質を受容する機能性タンパク質(レセプター)が点々と散在しています。人間が感じるにおい分子は40万種類以上といわれ、レセプターは約1,000種類も存在します。1~数種類のレセプターを持つ嗅細胞は、類似のにおい分子を1種のレセプターで感じ、分類と識別を行っています。嗅細胞の数はほぼ2,000万個あり,同じ種類のにおい分子を感じる複数の嗅細胞は軸索を伸ばし1個の子球に集まって僧帽細胞へ情報を伝えていきます。レセプターのレベルで、かなり細かなにおいの識別が行われていることになります。嗅細胞は多くの他のニューロンに情報を伝達し、嗅覚特有の長い神経経路を構築しています。人間の嗅覚に関連する脳の皮質は他のほ乳類とくらべ極端に退化していますが、嗅覚が脳の機能に様々な影響を及ぼしていることは、よく知られています。ラットやネコ、アカゲザルなどのほ乳類における研究で、嗅覚の神経伝導路は、鼻腔の嗅細胞からの刺激が嗅球を通り、梨状葉、前嗅皮質、嗅結節、扁桃体、嗅内皮質などの嗅皮質に入り、においとして認識されることが知られています。ここで注目して欲しいのは、動物の嗅皮質を構成する扁桃体は、人間では大脳辺縁系に属し情動の中枢になっていることです。嗅皮質からの出力は、海馬、視床や前頭前野眼窩回へ投射されます。前頭葉の前頭前野眼窩回が嗅覚の高次中枢であろうと考えられています。前頭前野眼窩回は、前頭連合野に属していて、においが記憶や認識、意識や意欲などのより高次の脳の働きにかかわりを持っている可能性が、この神経経路からも考えられます。さらに、海馬は記憶の定着に重要な役割を担っています。
においには、上行性の嗅覚主路以外に、自律神経系へ直接的に作用する経路(嗅覚副路)が知られています。(Dayawansa Sら, Autonomic Neuroscience: Basic and Clinical, 2003)そのため、においの作用については、脳への作用以外に自律神経系への作用も考慮する必要があることになります。なお、人間ではフェロモンのレセプターは見つかっていません。あの人はフェロモンを出しているので...というのは、都市伝説のようですね。
においによる睡眠妨害
嗅覚と睡眠との係わりについて、古くより悪臭が睡眠を妨害することが知られています。しかし、脳の働きが低下している睡眠中に悪臭があっても、本当に睡眠は妨害されるのでしょうか。睡眠中にペパーミントや強い刺激臭を示すピリジンによる嗅覚刺激を付加した実験が報告されています(Carskadon MAら, Sleep, 2004)。ピリジンは、相当に強い刺激臭です。このような強い刺激臭をNREM睡眠の段階2,3,4およびREM睡眠において負荷しても、顕著な覚醒効果は認められなかったと報告されています。一方で、寝つく過程で覚醒からの移行期に見られる浅い睡眠のノンレム睡眠段階1において、強い刺激臭を負荷すると入眠の妨害が生じたことが報告されています。この研究結果は、眠ってしまえば、人間はにおいの刺激に対する脳の反応性あるいは認知力が相当に低下することを示し、一方で入眠過程ではにおい刺激が寝つきの善し悪しに影響する可能性を示しています。睡眠に関係して、脳の活動性や情動性の作用をにおいに求める場合には、入眠までの過程あるいは朝の覚醒時のまどろみの過程において効果を発揮しやすいことになります。
睡眠を改善する香り
鎮静系の香りとして、すぐに思い浮かべるのはラベンダーの香りでしょう。香りと睡眠の関係についての多くの報告でも、ラベンダーを用いた研究が目立ちます。例えば、ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤や催眠作用を持つ向精神薬を長期にわたり服用している不眠症患者をラベンダー香の環境下におくと、薬物の服用を中止した後(薬物離脱後)に生じる反跳不眠(睡眠薬の服用前と同じか、より強く不眠が生じる現象)を抑制できるとの報告があります(Hardy Mら, Lancet, 1995)。この報告では、睡眠時間の回復が認められており、香気成分が覚醒から睡眠への移行期である入眠過程に良好な影響を及ぼしていたものと推察されています。また、ラベンダーを一週間にわたり揮散させ、不眠障害患者の症状改善を検討し、症状の改善傾向が見られたという報告もあります(Lewith GTら, J Altern Complement Med, 2005)。ラベンダーは、これまでに報告された多くの論文から睡眠への直接的な作用はないと思われますが、入眠期に覚醒系を鎮静させ寝つきやすくさせる作用を持つと考えられます。鎮静作用を持つとされる沈香には、睡眠に対する作用は見られないことが報告されています。
直接的な入眠促進や睡眠の質的改善作用について科学的な評価に基づいた報告のある単一香気成分は、セドロール(cedrol)(山本由華吏ら, 日本生理人類学会誌, 2003)、ヘリオトロピン(heliotropine)(Yamagishi Rら, Sleep and Biological Rhythms, 2010)など僅かです。セドロールは、マツ科ヒマラヤスギ属のセダー心材から水蒸気蒸留で抽出されたセダーウッドオイルを蒸留精製したものです。純度99.8%以上のセドロール(セスキテルペンアルコール類)は無臭~微香の香気成分で、それを揮散させ効果を検証した研究によると、自律神経系への作用としては、心拍数および収縮期血圧を低下させ、心拍間隔変動スペクトラム解析でLF/HF比(心臓交感神経活動バランス)が減少しHF成分(心臓迷走神経活動)が増大することが報告されています。交感神経系を休息モードに導く作用があると思われます。睡眠への作用としては、総睡眠時間が延長し、入眠潜時が短縮し、睡眠前半の中途覚醒を減少させることが報告されています。ヘリオトロピンは、バニラ豆、ニセアカシア、セイヨウナツユキソウの花の精油に含有され、やや強いバニラに近い香りがあります。ヘリオトロピンの睡眠中の揮散により、ノンレム睡眠の段階1、2の減少、睡眠段階4の増加、REM睡眠の増加が報告されています。
睡眠改善のための香りの時間生物学的用い方
香油マッサージにより生体内に香油成分を浸透させる本来のアロマテラピーと異なり、日本では揮散による使用が大多数です。揮散による香気成分の生体にあたえる効果は、大部分が嗅神経を介しての神経作用であり、香り提示を中止すれば効果は直ちに消失するという特徴を持っています。香り提示には、睡眠薬のような長期の持ち越し効果や副反応の報告の見られないことが多く、安全性が高く、用い方を工夫すれば興味深い効果が得られる睡眠の改善法と言えるでしょう。
入眠の改善や睡眠の質的な向上を目的とした場合でも、セドロールやヘリオトロピンのような睡眠に直接的に作用する香気成分以外のにおいにも、状況によっての使用法が存在します。日中の覚性状態の質的向上により、夜間の睡眠が改善するとの報告は多いのです(Thorgrimsen L, et al.: Cochrane Database Syst Rev CD003150, 2003)。嗅覚神経経路では、上行性の脳神経系に及ぼす影響にはすぐに順応が生じ、効果の持続が望み難いというにおいの特徴があります。一方で、不規則な時間間隔でにおいを提示した場合には、嗅皮質の順応は生じにくいことが知られています。覚醒時の情動系の鎮静や脳の活動性の向上を目的とした香り提示の場合には、感じられるにおいが持続的に提示できるような技術を用いる必要があります。他方、交感神経や副交感神経の活動を調整する目的の場合には順応は生じにくく、持続的な香りの提示が有効です。また、ラベンダーの香りの効果に、動物実験ではありますが、生体リズムのマスタークロックである脳の視床下部に存在する視交差上核(SCN)が影響を及ぼす可能性が指摘(Tanida M, et al.: Neurosci Lett, 2006))されています。このようなSCNの影響が人間でも見られる可能性は高いのです。ラベンターのような鎮静系の香りは夕方以降に作用させると効果が大きく、グレープフルーツのような覚醒系の香りは朝方に用いると効果が大きいと期待されます。生体の機能は、サーカディアンリズムによって支配されています。生体機能の一日の変化の中で、適切な香りを提示する時間生物学的香り処方(chrono-aroma-treatment)で、夜間の睡眠状態を改善できる可能性は高いでしょう。円滑な入眠には、心理的な安心感と安全感が大きく影響します。嗅覚の脳神経経路でも、大脳辺縁系の扁桃体や記憶に関連した海馬への経路が明らかになっています。上行性の大脳辺縁系に作用する嗅覚系においては、嗜好性や生育時の体験が、守られているという安心感や安全感につながり入眠を促進する効果をもたらす場合もあります。入眠期に問題があるような場合には、香りは有用な効果を発揮する可能性がきわめて高いのです。さらに、朝方の起床時にグレープフルーツの香りのような覚醒系の香りを揮散することで、目覚めた後の爽やかさを強調し、眠気の軽減にも繋がることが期待できます。睡眠改善に香りを用いる場合には、好みの香りを状況に応じて適切な濃度を、ランダムに揮散させると効果がみられるでしょう。濃すぎる濃度は、逆に悪臭と感じられることもあり、濃度が薄すぎると効果が見られないでしょう。寝つきを良くするのか、睡眠を安定させるのか、朝の目覚めを爽やかにするのか、目的に応じた香りの選定と提示法が大切です。
文章:睡眠評価研究機構代表 白川修一郎先生